自分の人生のさいごを意識して生きてみる
これを書いてるのは
2025年5月だが
今から100年後の2125年5月
この時点で生存してることは
技術が余程発展し
長寿技術が確立されてない限り死んでるだろう。
平均寿命の80歳までとした場合50年あると考えると猶予があるように思える、が
老化に伴い「気力・体力」の衰えは確実にやってくる。
では何故?死を意識した方がいいのか?
今回はそんな個人的な考察をしたいと思う。
日常に溢れる目先の楽しみ
昔のように一定の時間になったらテレビの前に座って
同じような番組を見て
休日にはレジャー施設に行って
他の人と同じ様な過ごし方をしていたのは
ちょっと前の時代。
外出先でもスマホを開けばYouTubeで好きなコンテンツにアクセスできるし
SNSで人とスグに繋がれる。
時と空間に縛られることなく
いつでもどこでも電波さえ届けば
好きなコンテンツにアクセスしたり
人と繋がれるようになった。
便利である反面
24時間いつでも繋がれるが故
スマホ依存という言葉があるように
四六時中スマホを手放せないスマホ依存の状態もあるだろう。
別にこれだけ便利なスマホが駄目とジャッジするつもりは1mmもないし
寧ろ便利に使わせてもらってるので感謝ですらある。
とはいえ、その使い方が問題で
暇つぶしとかスマホを手放せない状態は問題ありだろう。
その他人からの賞賛ホントに必要?
私もあまり人のことは言える立場ではないが
つい他人からの賞賛とかどう思われるか?に重きを置いてしまう部分は少なからずある。
これは無理に変える必要はなく
自然に変えていけばいいと思ってるが
この他人からの賞賛が欲しいために
そこにエネルギーを費やすとなると話は別。
砂漠で喉が渇いて水を飲めば喉の渇きが癒されるが
そこでコーラでも飲んだらどうだろう?
飲んだ瞬間は清涼感で満たされてスッキリするが
時間が経てばまた喉が渇く。
他人からの賞賛もコーラのような状態なのかな?と私は考えていて
賞賛を得られた瞬間は満足感に浸れるが一瞬である。
ならば?自分で自分を賞賛(最終的には自己肯定感を上げる)方に
重きを置いた方が長期的には良いだろう。
時間配分を考えた方が良いだろう
これを書いてる私も
人からの賞賛が欲しかったリ
スマホを1日に3時間も触っていたりするので
要改善なのだが
その目先の楽しみ等ではなく
ホントにホントの「死の床」に自分がいると仮定して
その時にやらなかったことを後悔しないだろうか?
それを想像してみて今の現実に落とし込んでもいいのかもしれない。
人からの賞賛のように即効性はないので
時間はかかるけれど
死の床で満足して「あの世」に後悔なく行ける生活
これを現実に落とし込むことができたら
長期的な結果は大きく変わってくるだろう。
時間が経つのは意外と早いもの
10代のときの中学生・高校生だったころを思い起こせば
時間は永遠な気がしたものだし
学校生活の3年も相当長く感じたものだが
20代・30代と時間を経るにつれて
同じ時間を過ごしてるにも関わらず
時間の経過は早く感じるもの。
これは恐らく既知感が至る所で出てきて
新鮮さを感じにくくなることも関係あるだろうが
10代と30代の同じ時間感覚は確実に異なる。
徐々にでいいから生活を変えてみる
SNSやYouTubeには私も日頃からお世話になってるので
完全に距離を置くつもりはない。
ただ、その使い方であって
程よい距離感を保ちつつ
日常生活でできるちょっとしたこと
こんなことを少しずつでいいので
取り入れて「死の床」でやり切った感を感じていたいものだと思ったので書き記す。